2017年2月3日金曜日

テクニック他(2003年3月BW誌)

この原稿でアカデミックレイクとしては終了の模様。ラストだけお堅いイメージ捨てて『ですます調』になってますね。微笑ましい。偶然にも実釣記事で結果が伴ってて人気出てきたらしくこのあとバスワールド誌には実釣記事メインになったりしました。

話が変わりますが、明日からフィッシングショー大阪ですね。TULALAは例年通りUOYAブース内に間借りさせていただいて出展予定です。横浜で人気爆発だったリスも再び登場予定。
※中の人は未成年じゃないです。そしてこちらの代打メンバーの提案を断られ、単独でリスに志願してきてますので、あくまで本人の意思です。こき使ってませんので誤解しないでください(笑)。









Academic LAKE Vol.13

◆最終回
 ついに当連載も最終回を迎えることになった。これまでの話なども含めて、一部バスギア2003に掲載されているので是非ご覧いただきたいと思う。今回は最後ということで、私が釣りに対する考察の中で『最も重要視していること』について書いていきたいと思う。これはテクニックでもなんでもなく、ただただ魚になって考えてみたかった、という私なりの努力の成果なのかもしれない。

◎普遍性と相違性
●共通したパターン、わずかな違い
 釣りに限らず、世の中の全てのものは『共通点』と『相違点』の連続で構成されている、と思う。例えば『昨日と今日、近所のある池にバス釣りに行ってテキサスリグで一尾づつ釣れた』とするならば、何がこの2日の釣果に共通しているのか、なにが違うのか。これを瞬時に見つけだして組み立てていくのが私のやり方である。この連載において、もっとも面白いと感じていただいた部分はそこにあるのではないだろうか。「こういうことって、あるある」とか「これは僕の体験とはちょっと違うかなあ」とか、様々な感想を持っていただいたが、やはりこの誌面で、これまでの雑誌記事では言葉にできなかったことを言葉にしたことによって、皆さんが経験した、莫大な数のデータとの照合が行なわれたのだと思う。このデータの照合作業こそが、知らず知らずのうちに「魚の視点で考える」の本質に近付くカギを握っているのだ。
 例えば先ほどの例でいうと、昨日釣れた一尾と今日釣れた一尾の共通点は、パッと見てもルアーが共通していることのほかに「一尾」であること、「バス」であることがわかる。その他にも季節、場所、口で食ってきたこと、アングラーが同一人物ということで共通していることも挙げられる。これだけでも相当なヒントとなりうるのだ。こうしてどんどん『共通点』を見つけると、たった2尾のバスからシーズナルパターンの片鱗やその釣り場の有効な釣り方が見えてきたりする。また、『相違点』はピンスポットから時間帯、フックの刺さる位置に至るまで、うなるほどある。微妙なものはおおまかな共通点の前では無力なので、より大きな違いが重要になってくる。
 例えば先ほどの例で、時間帯が前日と5分の違いであれば、これは「だいたいこの時間に食うのでは?」という共通点の中に含まれるようになるし、1時間違いであれば朝、昼というように時間帯の共通点でくくることができる。しかしこれが8時間も離れていればどうだろう。時間はパターンを組み立てる考え方から外すことができるきっかけになるのではないだろうか。こうなれば残りの「場所」の共通点や「天気」「サイズ」「ルアーの色」「リトリーブスピード」は?といったような共通しそうな部分を探すようになる。
 もちろんこれでルアーの色とサイズが共通したなら、それだけでも大きなヒントだ。二日間にわたって再現性のあるパターンが存在したかもしれない、というところまでわかってしまうのだから。
 これらの抽出をものすごいスピードで様々な視点から組み立てれば、釣り理論の材料などはたくさん用意できてしまう。これを最後に裏付けるために、最大の相違点である「他人」を利用するのだ。例えばその時期、エリアの特徴、時間帯、ルアーが決まっていて、自分以外の人が同じように投げても釣れたなら、そのパターンはより確実性が高くなる。私はこの最後の作業を、読者の皆さんにおまかせしていたという、とんでもない卑劣なヤツだったのだ(笑)。

◎魚に近づいて考える
 「魚になったつもりで考えよう」よく、バス釣りの教書にでている言葉だ。これこそ釣りの理想ではないだろうか。遊ぶ対象となるその生物になりきることによって、魚の置かれている環境に目を向けて自然を守ろう、と思うようになったり、どれほどの力で生命は壊れてしまうのか、というようなことがわかるようになってくる。
 魚の視点から見る、魚の感覚で音や温度、味を感じる。こういう様々なアプローチをするためには、魚と人間の間にどれほどの感覚の共通点や相違点が存在するか考えなくてはならない。まず重要な点は水の中と外の生物という違い。重力に従い、地面に這いつくばって生きる我々と体が浮いている魚との感覚の違いは一見して相違点だらけだ。ひとつひとつ立場を変えて魚の感覚に近づかなくてはならない。
 水の存在によって生じる違いはまず、視点だ。以前も書いたとおり、多くのフィッシュイーターは我々と違って目線より上のものを食べて生きている。しかも一日中その食べ物のことを考えて生きているのだ。これを一日一時間も魚のことを考えない我々が、いくら考えても魚のレベルに到達することは非常に難しいといえる。
 音に対しても水中というのはダイレクトだ。どれほどかといえば密度が833倍も高い空間の中にいるために、伝達速度が空気中(344m/s)の約4.5倍もあるのだ。当然この水の中で暮らしているのだから人間との感覚の違いは大きい。
 これら全ての相違性という困難を乗り越えて魚に近づいて物事を考えられるのだろうか。それがこの連載の課題であり、釣りのもう一つのオモシロさである「自然に近づくこと」なのだと思う。
 次に変温動物と恒温動物の違いという点。陸上の恒温動物である我々の考え方だと、急な温度変化もいつものことなので、たいしたダメージではない。しかし、変温動物は違う感覚で温度を捉えているに違いない。さらに水の中である。例えばお風呂の湯沸かしで4度も温度が違う水が出てきたら、すぐにその微妙な差異に気付くだろう。空気中で同じ温度差の温風が吹き出してきたならどうだろうか。温度に対して置かれている状況がまったく変わってくると思う。余談だが、これは釣った魚を手で触るということについても同じで、もしかすると我々が思う以上にダメージを負っているのかもしれない。もちろん変に暴れないことから、魚自体に手の温度が拷問のように熱いわけではないだろうが、その皮膚はかつてない高温を経験していることになる。これがヤケドとなり感染症につながっていくことも考えられるのだ。

◎唯一のテクニック!?
 私は釣り自体まったく上手くないのでテクニックについて触れることなど滅多にない。ただ、私ができるワザの中でただ一つだけ他人に隠していたテクニックがある。ヘタクソな私が、ヘタクソなクセに魚を釣り続けられるのは、要所要所でこの部分に注意しているからに違いないと思っている。今回は最後ということで、これを書いてみたい。
 そのテクニックとは、「糸抜き」である。激しいトウィッチでもジャークでも、おとなしいシェイクやただ巻きでも、私は水中でラインが振れる幅をとらないようにしている。常にロッドティップのしなりを利用して水中から糸を抜くようにしてルアーをアクションさせる。こうすることによってラインは動かない物体という理想の存在に近づき、運動しているルアーという存在だけが、より浮き出ると思うのだ。糸は抜かれて縦に動いてもそのシルエットは変わらないが、ルアーは抜かれた分移動したことになる。さらにルアーのアクションも目立っている、という仕組みだ。ただただ竿を立ててルアーとラインの角度を一定にしながらラインと竿先でアタリを見るのがコツだ。
 このテクニックの詳細は、誰かがどこかの誌面で知らず知らずのうちにやっているだろうし、勿体つけたり、練習が要るほどのたいした技でもなんでもない。ただ、それが言葉にできるかどうかであって、竿の角度さえ気をつければ誰でもいきなり実践できる簡単なテクニックだ。というか私はピンスポットへのキャストも、アタリに対する鋭敏なアワセもできないダメ釣り師で、これしかできない。だからこそ、このテクニックをこの連載の最後に送りたいと思う。これが私の、いや僕の読者の皆さんへの感謝の気持ちです。長い間ありがとうございました。



小川健太郎/26才。住所不定の車上生活者。水産学科で魚類のバイオテレメトリー(遠隔測定)を専攻したが社会の役には立っていない。365日連続釣行2クールを含む、総計3200日の釣行を就職までの11年でこなした「釣り場型ひきこもり」。シーバス色理論、池原ダムでのヤーガラ、ビッグバドなど、ごく一部のマニアの間だけで知られる。SIN-ZOベイトなどを開発。ホームページはhttp://ogaken.org